上杉鷹山公
上杉鷹山公と鯉
米沢鯉は、亨和2年(1802年)に十代藩主上杉鷹山公が、動物性タンパク質の乏しい山国米沢に、相馬から稚鯉を取り寄せ飼育したのが始まりです。鷹山公の教えによって、庭に池を掘って鯉を飼い、やがて晴れの日の行事、来客の時は決まって鯉のうま煮が一番のご馳走として、膳をにぎわすようになりました。
そして、約二百年、米沢鯉はここ米沢の四季の変化に富んだ気候と風土、そして暮らしの中で受け継がれ、伝統の味を今に伝えています。
ところで鷹山公って誰?
米沢藩十代藩主。上杉治憲。高鍋藩主秋月種美の次男として生まれ、10歳の時上杉重定の養子となりましたが、当時藩政は財政の窮迫が進行していました。治憲は、この苦境のさなか17歳で米沢藩を襲封、米沢藩再興に成功するが、35歳で隠居。その後も治広の後見役として藩政を指導し、72歳でその生涯をとじました。
米沢の今は鷹山公があってこそ。米沢織、米沢鯉、ウコギ、笹野一刀彫、などなど質実剛健、質素倹約で鷹山公が築いたいろんな基礎が、米沢の今を形作っているのです。
鷹山公とJ・F・ケネディ
昭和36年(1961年)に、アメリカ合衆国の第35代大統領に就任したJ・Fケネディは、日本人記者団から、「日本で最も尊敬する人は誰か。」という質問に、「それは上杉鷹山である。」と即座に答えました。
鷹山公の業績の素晴らしさを、改めて確認できるエピソードだと思います。
よねざわの礎石 直江 兼続(1560~1619年)
兼続公は上杉家の基盤であった農業の発展に施策を打ち、経済面を振興し、町づくりを進め、そして学問尊重の風土を根付かせました。兼続公が種を蒔き、鷹山公が実らせ育てたという訳です。鷹山公が中興の祖ならば、兼続公は米沢の礎を作った人といえるかもしれません。
上杉謙信の側近として仕え、謙信亡き後、景勝に仕える。人物像は、偉丈夫であり、弁舌も巧みで文武両道にすぐれた将であったという。
愛謙信のもとで「仁義の精神」を学び生涯の信条とした。仁とは愛であり、義とは仁の実践であると。それ故自前の兜の前立を『愛』として愛民の精神のシンボルとした。
武知勇兼備の将といわれ、国元の越後では、長い間上杉家に抵抗していた新発田重家を破り、佐渡も平定し、越後国内も安定期を迎えた。これらの攻略戦の陣頭には、常に兼続の姿があった。秀吉の命で小田原城攻略に貢献する。また文禄の役では、景勝と共に渡韓するも、この戦が無益なものと知っていた兼続は、自軍に対し財貨の略奪などを厳しく戒めたという。
関ヶ原での西軍の敗北、その後家康に和を乞い、上杉家は米沢30万石に減封される。家康に歯向かったにも関わらず、減封だけで罪が免れた影には、兼続の政治工作の努力があったという。
文優れた武将であると同時に、詩歌をよくし、書籍を愛した文人でもあった。農民に作物の栽培等の諸注意を示し、農業を励ませた「四季農戒書」もある。また直江版といわれる「文選(もんぜん)」「論語」「春秋左氏伝」 などを出版し、儒学者林羅山の絶賛をあびた。
創米沢藩30万石と4分の1に減じられたにも関わらず、ほとんどの家臣は上杉家を去らずに米沢へ移った。兼続の総監のもと、着々と町づくりが進められていったという。米沢を松川(最上川の最源流)の水害から守るため、松川上流左岸に二つの堤防をつくった。現在これを直江堰と呼んでいる。また兼続は開墾、用水、植林及び農業生産にも力を入れた。用水のために李山地内で松川の水の堰止めて、南原、笹野等の用水とする猿尾堰をつくった。
(堰近くに今も「龍師火帝」(りょうしかてい)と刻んだ大石がある。この碑は横約2.9メートル、縦約1.8メートル、厚さ約1メートルの安山岩の自然石で「龍師火帝」とかご字で刻み、その左に「梵字及び伝燈叟髄記之」と陰刻している。これは兼続が堰をつくった時に水神及び火帝をまつり、用水不足することなく、水害のないよう祈祷したものと伝えられている。)
兼続公の生きていた時代というのは、戦国時代の末期、まさに時代が大きく変わろうとする激動の時でした。兼続公と関わりのあった人というのは、信長、秀吉、景勝、家康、政宗、三成、そして千利休ほか、この後の歴史でもこれほどのキャストは揃わないというくらいに傑出した方々がおりました。そんな中で常に己を見失わず、景勝のナンバー2として、私心を捨て主君(組織)をそして領民を守るため粉骨砕身での生き様に深く感動しました。特に兼続公の施策の根幹をなす農業政策では、生産性を向上させることが、ひいては国を繁栄に導くものであるという思想があったようです。現在の日本において一番欠けている部分ではないでしょうか?農業を軽んじた挙句、食料自給率も先進国では唯一40 %を切るかという低水準となっています。世界史的に観ても農業を疎かにする国は、例外なく滅んでおります。兼続公は権力者たる武士のみが富を謳歌しても、土に密着して生産に携わる農民を軽んじれば、必ず国が滅びるという普遍的な真理を捉えていたといえましょう。そして兼続公は豊臣、徳川といった中央集権的国家に対しても、地方分権の統治を行いたいという普遍の論理を最後まで貫き通しました。
ところが現在は残念ながら、どこかの国の政治家や官僚のように、景気の低迷や凶悪犯罪の増加などには目をつぶり、巨大な国家負債を未来に付け回し、今まさに国が滅びようとしている時に、国民の痛みも分からず、己の利権や政権抗争に明け暮れる方々もいらっしゃいます。
こんな時代だからこそ兼続公型のリーダーが必要なのに・・・